「真っ当に生きること」の険しさ、という話

前書き

これから書くことはあなたに対しての指摘を含めたものではありません。あくまでも、坐禅の中で藤田自身をして、学んでいることです。

あなたはどのように生きていても良く、あなたにはあなたにしかできない人生、在り方があります。あなたが今のように生きることでしか関われない人、助けられない人、寄り添えない人がいるのだと思います。

藤田自身に起こってきた表現としてそのままを書きます。際どいと感じられることも書く可能性がありますが、あなたの生き方を否定するために書いたものではありません。

けして否定されたように受け取らないでくださいね。あなたを傷つけたり、指摘するような意図は藤田にはありません。

日々、真っ当に生きることは難しいなと感じています。なかなかに険しいように思えます。

人間の歴史は、「傲慢さと自己正当化が9割以上、優しさや慈悲が1割未満」の歴史だと思っています。

藤田自身の身体的反応や思考を日々見つめていても、

  • 「私が言っていることや行なっていることは、~よりも正しい(間違っている)」
  • 「私が言っていることや行なっていることは、~よりも優れている(劣っている)」
  • 「私が言っていることや行なっていることは、~よりも先んじている(遅れている)」

といった反応や態度に溺れやすく、かつ、それを正当化しやすいです。

おおよそ正常ではなく、狂ってるなあと思うのです。

つるぎをとり、誰かに切り掛かりたくなるようなモーションに、身体はすぐに入ります。そのはじまりに立って、モーションの手前で立ち止まることはなかなかに忍耐力の必要なことだなと。

人間なのだからそのような反応をして至極当然だとはおもいますし、許容することは大事だと思います。

起こってくることとしては表現しても大した問題ではありません。むしろ、表現できない方が問題になることもあります。そのままを表現できることはプロセスとして大切です。

だからといって、人間だからそうあっても問題ないよね、仕方ないよね、という風になるのは、またすこし違うと思っています。

すぐにでも人の粗探しをし、自分よりも「下」だと思うものや「間違ってる」と思うものを見つけては、相手と同じようにならないこと、またはそれとは違った取り組みをすることで「上」になり「正しく」なり、「安心」する。

この「安心」っていったいなんなんだろうなあ、なんてことをよく思います。

「私はあの人とは違います!」と声高々に言いたくなる時、大抵は自分のことを「あの人と同じなのではないのか?」と疑っています。その疑いを一生懸命に振りほどきたくて、声高々に宣言することを必要としています。

その「一生懸命さ」は見ていて非常に痛々しい。傷を伴っているものです。傷ついた身体を感じます。

認められたい、求められたいという欲の根底にある悲しさと寂しさのような杭です。まるでその杭に磔にされているような痛みです。(有名な象徴に似ているよなあ、と思うのです)

声高々に言うことや、誰かからの賛同を得たところで、その疑いは振り解けるものではありません。

疑いを疑いとして認識して、真正面から受け止めない限りは、ずっとその疑いから逃げ続けることになります。

この逃げ続けるプロセスが、ちょー苦しいのです。この苦しみは計り知れないと思います。

逃げ続けても苦しいし、受け止めることも多少の恐怖を伴うので、どちらも苦しい。

逃げ続けて「気にしないこと」が楽になることではありませんしね。

気にしなかったり、無理に振りほどくことで「楽に」なり、感覚に麻酔を打って鈍く、できる限り感じずに生きる。それは真の意味での「楽」ではないでしょう。

そうなるくらいであれば、悩みを悩み、苦しみを苦しみ、悲しみを悲しみ、叫びを叫び生きる方が真っ当だと思います。

「悩み=悩み」「疑い=疑い」として受け止めることで疑いが消えた時というのは、くつろぐことができます。静かになるので受け止めて良かったなあと思います。

藤田の日常は日々、おおよそ、そのようなことの繰り返しです。

今まではこのようなことを書くことも、なかなか難しいことでした。

それは、このように生きていることこそが、他人よりも正しく、優れていて、先んじていると鼻高々に、高いところで安心するような傲慢さが藤田の中にあったからです。

また、言葉を発する時は木からもぎ取ってすぐの果実のような新鮮な言葉を発したいのです。それは野性味と生命を感じさせる独特なものとなるはずです。

熟す前に切り取られスーパーマーケットに並んだ未熟な果実のような言葉、どこかで聞いたことのあるような言葉では、その道をまだ歩き足りないと思っていました。

そんなモヤモヤをそのままにして坐ること約8年。

今回のように表現してみて、以前よりはマシですが、まだまだ野性味ある生命感じる言葉は出てきていないなあと思うのでした。

今後も静かに歩きます。

まずは10年。次に20年。そして30年と坐ってみて起こってくる言葉を、楽しみにしています。

過去のその時をただ回想し傲るのではなく、改めてその時を迎え、また改めてその時を迎えてを繰り返し、果てしなくも険しくも感じるその道を、実際に歩んでいる人はすごいなと、改めて思うのでした。

身体を伴って、人として歩んでいくことを大切に思います。

「発展」は、木のように拡がって、網のようになる、のかな?

歴史に学ぶ場合、それまでの言論よりも新しい言論の方が優れているといった発想によって「発展」してきたように思えます。でも、これは本当に「発展」と言えるのだろうかなあと思うことがよくありました。

枝分かれし、ただ複雑怪奇になっているだけなのではないか、と。

そして、「私は~よりも優れている」と言いたい人間の欲ばかりを感じられてしまって、なんだかうんざりな気分になることもありました。

うんざりするままに調べ続け、坐ること約8年。新しい認識が出てきたのですが、

もともとは幹の部分で一本だった木も、時間が経過するごとに伸びていって、枝分かれし、葉っぱをつけます。

枝分かれした葉っぱの部分で、受け止められる許容量が増えて、最終的にはたくさんの人が幹に到達できるようにしてるのかな?なんて思うようになりました。

大きな網になれば、その網でキャッチできる人が増えます。

そう思うようになると、複雑にはなるけれども、受け止める部分が増えることは悪いことだけではないのかな、なんて思ったりもしました。

「入り口が増える」というやつですね。

うーん、良し悪しはなんとも「私」の正誤だけでは測れないものだなあと。「私」が勝手に考えたモノサシで、物事を裁くことの愚かさを感じています。

毎日一歩ずつ、綱渡りのように、右に落ちたり、左落ちたりせず、歩んでいきたい。

落ちたとしても再びそこに上がって、責めることなく、開き直ることなく、暇つぶし、気晴らしすることなく、歩んでいきたい。

すぐに落ちてしまいそうになるので、ゆっくり慎重にならざるおえないですね。

日々、そんなことを考えています。