オディロン・ルドン。印象派の時代を生きた孤高の画家、158の絵画作品

先日、春一番が吹き、春がやってきました。

これから徐々に暖かくなっていきますね。

花粉症の季節になりましたが、あなたは花粉症は大丈夫ですか?

ぼくは花粉症なので、目の痒さと、くしゃみ鼻水がつらいです><

マスクとメガネは欠かせませんね。

[voice icon=”https://fujitamasayuki.net/wp-content/uploads/2017/01/masayuki2017.png” name=”まさゆき” type=”l”]こんにちは、絵画と作曲をつかった芸術作品をつくりたくて、絵画と作曲について研究している藤田です^^[/voice]

今回の記事では、ぼくの好きな画家、オディロン・ルドンを紹介しています。

この記事は、

  1. おすすめの画家について知りたい人
  2. オディロン・ルドンについて知りたい人
  3. オディロン・ルドンの作品を知りたい人
  4. 印象派、象徴主義・綜合主義(反印象派)について知りたい人

そんな人に、おすすめできる記事になります。

オディロン・ルドンについて知ってもらって、実際に美術館に行って絵画作品を見るきっかけになれば嬉しいです^^

目次:好きなところから読む

オディロン・ルドンってどんな人?どんな画家?

自画像 1880年 オルセー美術館蔵

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%B3

オディロン・ルドンの特徴を3点挙げるとするなら、以下の3点になります。

  1. 内面的な世界、幻想的な世界を追求した画家
  2. ナビ派の画家に大きな影響を与えた人
  3. 絵画史における「印象派」「象徴主義・綜合主義」の時代を生きた人

内面的な世界、幻想的な世界を追求した画家

オディロン・ルドンは、内面的な世界、幻想的な世界を追求した画家です。

これについては、言葉で説明するよりも、実際に作品を見ていただいた方が伝わります。

こちらでは特徴を掴んでいただくために、ルドンの作品を3点、ご紹介します。

絶対の探求者…哲学者 1880年 木炭・紙

神秘的な対話 1896年 油彩・画布

グラン・ブーケ(大きな花束) 1901年 パステル・画布

いかがでしょうか?

花束という現実的なモチーフを描いても、色使いなど、どこか幻想的な雰囲気を感じないでしょうか?

ナビ派の画家に大きな影響を与えた人

ナビ派とは、1800年代後半(19世紀末)にパリで活動した前衛芸術家たちのことを指します。

ナビ派の画家には、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、ポール・ランソンなどがいます。

この中でもモーリス・ドニの絵画理論は、キュビズム、フォービスム、抽象絵画に影響を与えました。

オディロン・ルドンによる肖像画「モーリス・ドニ」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8B

ルドンがドニの肖像画を描いていることからも、ドニが語ったルドンの印象からも、ルドンとドニは親しかったことがわかります。

モーリス・ドニ自身、後にルドンの思い出に触れて、こう語っている。

「ルドンは私の青年時代の師であり、友人の一人であった。

深い教養と音楽に対する才能に恵まれ、親しみやすく親切な性格の彼は、象徴派の世代の理想像ーいわばわれわれのマラルメであった。

セザンヌの影響がゴーギャンとベルナールを媒介としてはっきりと現れてくる以前に、1890年前後の芸術の発展を精神的な方向に定めたのは、ルドンの石板画のシリーズとその驚くべき木炭デッサンの影響力であった。

彼は、その時以降、われわれがその証人として立ち会ったすべての美的改新、または革新、あらゆる趣味の革命の起源となった…。

ルドンの教えは、彼が何か魂の状態を表明しないようなもの、あるいは深い感動と心の奥底の幻想とを伝えないようなものは何ひとつ描くことができなかったというまさにその点にある」

高階秀爾著「近代絵画史(下)」より

他に、ナビ派に大きな影響を与えた人は、ポール・ゴーギャンを挙げることができます。

[voice icon=”https://fujitamasayuki.net/wp-content/uploads/2017/01/masayuki2017.png” name=”まさゆき” type=”l”]キュビズムを代表する画家は、ピカソとブラック。

フォービスムを代表する画家は、アンリ・マティスとジョルジュ・ルオー。

抽象絵画の代表は、カンディンスキーとパウル・クレー。

ぼくが大好きな画家に影響を与えたナビ派。

そのナビ派にルドンは影響を与えた、ということになります。

なんだかすごいことになってきて、興奮します![/voice]

モーリス・ドニ「スザンヌ礼賛」1900年

ゴーギャンの教えを受け継いで画面の装飾的構成ということを重要視したナビ派の画家たちが、同時にこの「内部の世界への眼」にも強く惹かれていたことは、ドニの《セザンヌ礼讃》にもう一度立ち戻ってみれば、明らかとなるであろう。

実はこの記念すべき作品には、セザンヌ、ゴーギャンと並んで、もう一人、ドニとその仲間たちが「礼讃」を捧げた画家が登場している。

画面の左端で、眼鏡を手にしながら何事か教えさとすように若者たちに語りかけている人物がそれで、この画面の構成は、横向きの人物ただひとりと、他の九人との人物が向かい合ってちょうどバランスがとれるように配慮されている。

つまり、他の人々よりも一見して明らかに年長であるこの柔和な顔つきの堂々たる人物が場面のいわば主人公であって、ほとんどの人々の視線は、はっきりと彼の方に注がれている。

中央のイーゼルの上の静物画がセザンヌの作品だということを知らない人が見たら、この人物が、若い画家たちの「礼賛」の対象だと思うかもしれない。

画面でそれほどまで重要な位置を与えられているこの人物こそ、実は「魂の神秘の世界への探求者」オディロン・ルドン(1840ー1916)に他ならないのである。

モネと同じ年に生まれたルドンは、年齢から言えば、ナビ派の画家たちよりもほとんど一世代先輩にあたる。

しかし、印象派の表現技法の影響を受けながらも印象派の美学には強く反撥したナビ派が、ルドンにだけは傾倒したのは、何よりもルドンが、人間の内部に向けられた眼の持ち主だったからである。

高階秀爾著「近代絵画史(下)」より 引用

絵画史における「印象派」「象徴主義・綜合主義」の時代を生きた人

オディロン・ルドンが生きた時代は、印象派の時代です。

オディロン・ルドンは、クロード・モネと同じ年に生まれたので、同い年です。

エドゥアール・マネが展覧会で<草上の昼食>を発表した結果スキャンダルになり、クロード・モネが≪印象・日の出≫と呼んだことから「印象派」と呼ばれるようになった時代です。

ルドンは、「印象派」がそれまでの「写実主義」の時代のアカデミックな教育に新しい観点を投げつけて物議を醸し出し、一つの時代が盛り上がっていくのを静かに見ていました。

ルドンは独り、印象派の次にくる時代の先駆けを築いていたと言っても過言ではありません。

ルドンは、印象派に当初から批判的でした。

印象派が「印象を捉えて描く=見たものを描く」ことから、「世界が限られている」と強く非難しました。

後の象徴主義の芸術家たちと親しかったことから、印象派が「色彩を強く追求していく中で理念や形態、理論も失うことも辞さない」という傾向が強い中、ルドンは、「確かに個人的視点による印象と色彩は大切かもしれないが、理念や形態、理論も大事」という意見だったのだと考えています。

また、ルドンは「内的な世界」に興味があったので、「外的な世界」の光を追求する印象派とは視点が異なり、もっと独自の表現を追求していきたかったのだと考えています。

「印象派の展覧会」の8回目には参加していますが、「印象派の展覧会」は回を追うごとに変化していました。

8回目の展覧会は「印象派」の展覧会というよりも、新印象派や後期印象派、象徴主義、その他の流れの展覧会になっていて、事実上「印象派の展覧会」ではなくなっていました。

[aside type=”normal”]「印象派グループの展覧会」は、1874年から1886年の12年の間に8回開催されました。

初期の展覧会には、ブーダン、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ベルト・モリゾなど30名ほどの画家が参加していました。

4回目から、ポール・ゴーギャンが参加するようになりました。

最後の8回目には、初期からいたメンバーはピサロ、ドガ、モリゾだけになっていました。

その代わりに、スーラ、シニャック、ルドンが加わりました。[/aside]

近代絵画史の著者である高階秀爾さんは、その著書の中で、「印象派展覧会の8回目は印象派の展覧会というよりもむしろ、”反印象派”の色合いが強かった」と述べています。

1880年代の後半から90年代にかけて歴史の上で決定的な役割を演じることになったゴーギャン、ゴッホ、ルドンなどの新しい傾向は、印象派の後に登場してきたという意味で、一般に「後期印象派」という名称で一括されている。

たしかに彼らは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響のもとに育ち、スーラ、ゴーギャン、ルドンは印象派のグループ展にも参加しているから、その意味で≪印象・日の出≫の画家の後継者であったと言えないことはないが、しかし、ー多くの優れた後継者がしばしばそうであるようにー80年代の後半以降明白になる彼らの芸術観は、先輩たちのそれと真っ向から対立するものであった。

事実に即して言うなら、彼らは「後期印象派」という以上に、むしろ「反印象派」だったのである。

したがって、スーラ、シニャック、ゴーギャン、ルドン、それに新印象派に「転向」したピサロなどが顔を揃えた1886年の第8回印象派グループ展は、形式的には印象派の最後の展覧会であったが、実質的には、「反印象派」の最初のマニフェストであったと言ってよい。

事実、この時以降、グループとしての印象派は完全に解体することとなる。歴史は新しいページを迎えるのである。

高階秀爾著「近代絵画史(上)」より

象徴主義の画家たちと親しかったこともあり、象徴主義の代表的な画家であるゴーギャンの弟子たち、ナビ派からも厚く支持されたことから、ルドンは「象徴主義の画家」と言われることもあります。

ぼくが参考書として頻繁に取り上げる高階秀爾さんの著書「近代絵画史」の中でも、象徴主義の画家として取り上げられています。

象徴主義・綜合主義とは

ここで象徴主義・綜合主義についての解説をします。

象徴主義とは、印象派に影響を受けた新印象派、後期印象派の流れから生まれた主義で、先にも書いた通り、「反印象派」と呼ばれる主義です。

歴史的に見れば、それまでの流れに対してのアンチテーゼとして、次代の流れが築かれることはよくあることです。

象徴主義は、印象派の「眼に見えるものだけを描く」ことに反対し、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域を探求して描いていこう、という主張です。

後の「ナビ派」「シュルレアリスム」に多大な影響を与えました。

また、中心に「理念」があって、絵画は、「理念」の視覚的表現であり、理念にとっての装飾(理念が着ている服)である、という考え方になります。

この考え方は特別に新しいものではありませんが、写実主義から印象派のそれまでの時代は、より現実的だったり、「眼に見えるもの」「証明できるもの」を描く傾向が強い時代でした。

それまでの絵画の時代の流れをざっくりと表すとこうなります。

  1. ロココ(華やかさと優美さを大事に)
  2. 新古典主義(様式を大事に)
  3. ロマン主義(感性と主観を大事に)
  4. 写実主義(ありのままを大事に)
  5. 印象派、反印象派(象徴主義、綜合主義)

ロマン主義も、「新古典主義のアンチテーゼ」「反新古典主義」となる主義で、「感性や主観を大事にする主義」であり、そういった面で象徴主義・綜合主義と似ています。

象徴主義・綜合主義と異なるところは、ロマン主義は「感性や主観を大事にする主義」とは言っても、外的な世界やそれまでの流れを完全に遮断するような形にはなっていません。

どこかで外の世界を感じさせるものがあり、まだ「外の世界を見ている」という要素を多く含んでいます。

5番目までの印象派までに共通していることは、「外の世界」だったり「当時の時代の社会的なこと」だったりしました。

象徴主義では、個人のもっと内面的な世界にフォーカスしていくことになる、という点で大きく異っていると考えています。

それは、絵画としての表現の面でも異なりを見せています。

象徴主義・綜合主義絵画の特徴

印象派が自然を再現するために用いた武器が「色彩分割」であったとすれば、ゴーギャンが象徴的表現に達するために用いた武器が綜合主義であったと言うことができる。

ゴーギャンの手紙をはじめ、当時の批評においては、「綜合」という言葉が、「象徴」という言葉と並んで頻繁に登場してくるが、それは何よりも、印象派の「分析」的な技法に対するアンチテーゼであり、「分析」の結果、多彩な色点の中に解消してしまった形態を、ふたたび復活させようとする試みであった。

そのため、ゴーギャンとその仲間たちは、対象の形態を、故意に強調された太い輪郭線で単純化して捉え、印象派の茫漠(ぼうばく)たる世界とは正反対の明確な形態世界を提出する。

その輪郭線は、中世のステンドグラスの構図の太い仕切りを思わせるので、綜合主義絵画は、時に「クロワゾニスム(仕切り派)」という名前で呼ばれたほどである。

このような形態の「綜合」は、当然色彩の「綜合」をももたらす。色彩はこまかく分割されるのではなく、ひとつひとつの「仕切り」の中では、平坦で強烈な色面として捉えられる。

その結果、画面は、一方ではステンドグラスのように装飾的になると同時に、他方では、眼の前の現実を越えた「思想」の表現ともなる。

説教を聞いた後のブルターニュの女たちの姿と、彼女たちの心に浮かんだ幻想とを強烈な赤のバックで結びつけて同一の平面の上に表現した≪説教の後の幻影、ヤコブと天使の闘い≫(エジンバラ、スコットランド国立美術館)など、そのゴーギャンの美学を典型的に示すものと言ってよいであろう。

説教の後の幻影、ヤコブと天使の闘い

この作品が描かれたのは1888年のことであるが、絵画における象徴主義的綜合主義は、ほぼこの時に成立したと言ってもよい。

象徴主義の特徴を学んでいると、ジョルジュ・ルオーに繋がるものを感じて、胸が熱くなります。

批評家アルベール・オーリエは、「絵画における象徴主義ーポール・ゴーギャンー」という評論の中で、象徴主義について定義しています。

芸術作品の必要条件は、

  1. 理念的であること、なぜならば絵画の唯一の理想は理念の表現であるから。
  2. 象徴的であること、なぜならば絵画はその理念を形態において表現するから。
  3. 綜合的であること、なぜならば絵画は、これらの形態、記号を一般的理解の方法にしたがって表すから
  4. 主観的であること、なぜならば絵画においては、客観的事物はけして客観的事物として考えられず、主観によって知覚された観念の記号として考えられるから。
  5. (したがって以上の結果)装飾的であること、なぜならばエジプト人、そしておそらくはギリシア人、およびプリミティフ芸術家たちの考えていたようないわゆるほんとうの意味での装飾絵画は、同時に主観的、綜合的、象徴的、理念的である芸術の表明に他ならないからである。

オディロン・ルドンは、象徴主義か?孤高の画家か?

ぼくは「ルドンは孤高の画家」といった表現が好きです。

そこに「画家オディロン・ルドン」というドラマがあって、好きです。

なので、ぼくの中ではルドンは、象徴主義の画家ではなく、「どこの派にも属さず、独り歩んだ画家」という認識です。

「ルドンは孤高の画家」という認識を、ぼくなりに裏付けるものが3点あります。

  1. ルドンの作品は、象徴主義の作品の特徴と異なっている
  2. 作品に現れるルドンの色彩感覚は、同じ時代のどの画家とも異なっている
  3. ルドンは、50歳まで、モノクロの絵(木炭デッサンなど)を描いていた

ルドンの作品は、象徴主義の作品の特徴とはすこし異なっている

ルドンの絵は、先の例に挙げた「象徴主義・綜合主義の特徴」とはすこし異なっていると感じています。

象徴主義は、理念や思想の表現の追求で、ルドンが残している絵にも理念や思想を感じるものはありますが(釈迦や仏など)、もっと独自の感覚、自己の深層に眠るもの、自分だけの表現を追求して描いていった感じを感じています。

それは「主張を画布に叩きつけて誇張されたもの」ではなく、「真摯に描くことによって内面から滲み出てきたものが画布に定着した」という違いを感じています。

作品に現れるルドンの色彩感覚は、同じ時代のどの画家とも異なっている

他の画家の色彩感覚と、ルドンの色彩感覚は異なっています。

他の画家たちは、既存の画家たちが表現した色彩のコピーのように感じるところがあります。

参考にしたり、模写するのは上達する上で欠かせない過程ですが、ルドンはそれを超えて、よりオリジナリティのある色彩感覚を表現することに成功しているように感じています。

ルドンは、50歳まで、モノクロの絵(木炭デッサンなど)を描いていた

ルドンが習得した「内面から滲み出てくる色彩感覚」は、おおよそ50歳まで描き続けた木炭デッサンにより培われたものだと考えています。

これはぼくがデッサンを学んでいる中での感覚的なものなのですが、紙の「白」と鉛筆や木炭の「黒」の世界に向き合い続けることで、色彩感覚に敏感になって、色彩の捉え方が変化していく感じがしています。

ぼくはまだ習得に必要なだけの時間をかけている段階であり、まだ漠然としていて意図的に使えるレベルにまでなっていませんが、ルドンの作品を見ていると、その延長線上にある「色彩感覚の使い方」を指し示してもらっているような、そんな感覚になります。

そして、それが、ぼくがルドンの作品を好きな理由になります。

画家オディロン・ルドンの生涯

本名は、ベルトラン・ジャン・ルドン

「オディロン」は、母親の通称オディーユに由来しています。

「オディロン・ルドン」は本名ではありませんでしたが、母の通称からくる「オディロン」に愛着を持って生涯使いました。

1840年、フランスのボルドーに生まれる。

裕福な家庭でしたが、生後2日目からボルドー近郊のペイルルバートへ里子に出されました。

母親が長男を溺愛し、ルドンは望まれない子供として扱われました。

絵を描くのが好きな、内気で病弱な子供で、自閉症気味な傾向がありました。

1851年、11歳、親元に戻る。

父親の意向もあり、建築家を目指しました。

エコール・デ・ボザールの試験を受けますが、不合格。

建築の道は諦めることになります。

弟のガストン・ルドンは、建築家になりました。

1855年、15歳、絵画を学び始める。

画家のスタニスラス・ゴランから絵画を学びました。

1860年、20歳、顕微鏡の世界に魅せられる。

植物学者アルマン・クラヴォーと知りあい、顕微鏡の世界に魅せられました。

ルドンの作品には植物学の影響が見られます。

版画集「夢の中で」はクラヴォーに捧げた作品です。

クラヴォーは、ルドンに、たくさんのことを教えました。

「たくさんのこと」とは具体的に、

  • 顕微鏡の中の世界
  • 生命の神秘
  • シャルル=ピエール・ボードレール(1821ー1867年。フランスの詩人、評論家)
  • エドガー・アラン・ポオ(1809ー1849年。アメリカの小説家、詩人、評論家)
  • ギュスターヴ・フロベール(1821ー1880年。フランスの小説家)
  • バールーフ・デ・スピノザ(1632ー1677年。オランダの哲学者)
  • インド哲学

になります。

1864年、24歳、パリに出るが、すぐにボルドーに戻り、銅版画家の指導を受ける。

パリに出て、ジャン=レオン・ジェロームに入門しましたが、すぐにやめました。

アカデミックな教育が合いませんでした。

ボルドーに戻って、放浪のボヘミアン画家として知られた銅版画家ロドルフ・ブレダンの指導を受けました。

ブレダンも怪奇な版画を描く人で、ルドンに影響を与えました。

1870年、30歳、普仏戦争に従軍。

フランスとプロイセン王国間で起きた戦争に従軍しました。

病気のため、途中で離脱しました。

[aside type=”normal”]普仏戦争では、プロイセン側の圧倒的勝利に終わりました。

ナポレオン三世が失脚し、第二帝政から第三共和政になりました。[/aside]

1872年、32歳、パリに定住する。

生涯をパリで過ごしました。

1878年、38歳、石版画(リトグラフ)の指導を受ける。

アンリ・ファンタン=ラトゥールから石板画の指導を受けました。

作曲家ショーソンと知り合い、リヨン派の画家ルイ・ジャンモと共に、ベートーヴェンのトリオを弾く仲でした。

ショーソンはドビュッシーとも親しかったことから、ドビュッシーとも間接的に交流がありました。

1879年、39歳、石版画集「夢の中で」を刊行。

突然の自殺によって亡くなった、アルマン・クラヴォーに捧げた作品「夢の中で」が発表されました。

アルマン・クラヴォーについて、ルドンは下記のように述べています。

 「私はまたアルマン・クラヴォーとも親交がありました。植物学者で、後になって植物生理学の仕事をした人です。彼はごく繊細なものたちのなかで仕事をしていました。あまり多くをお話できないのですが、彼は、知覚しえない世界の境界に、動物と植物を仲介するような生命、花というか生き物というか、一日のうち数時間、光の働きをうけているときにのみ動物であるような、あの神秘的な要素を探していたのです。」

「彼が亡くなったとき、私は突然、支えがなくなってしまったと感じました。彼の死は私を不安にしたのです。(省略)彼は私よりも年上で、その教示するところは、そのイデアリズムにもかかわらず力強く学識によって補強され、私にとっては岩のような存在でした。私はよく彼のいうことを拝聴したものです。」

引用:オディロン・ルドンの作品にみる植物学者アルマン・クラヴォー

ルドンの発言には、クラヴォーの影響があることを感じられます。

ルドンは、その後もクラヴォーと共有する世界観、あらゆる生物を組織する根源的な要素をみつめる視野をもって、作品に取り組んだ。

「外面的な自然のものの中で、最も細やかな、最も特殊な、偶然のものを注意深くあらわすことが大切です。(省略)秤で量り、煎じ出した自然は私の泉となり、酵母となり酵素となるのです。」

生命の素を探求する二人の作業は哲学的であったに違いない。だからこそ、ルドン作品の歴史の中で、クラヴォーと共有する世界観は不規則に表出し、際限のない繋がりをみせている。

引用:オディロン・ルドンの作品にみる植物学者アルマン・クラヴォー

1880年、40歳、結婚。

カミーユ・ファルトと結婚しました。

二人の結婚には「身分の違い」から、反対する者もいました。

カミーユ・ファルトは庶民でした。

ルドンは貴族ではありませんでしたが、ボルドー市長が「ボルドー有数の名家」と推奨するほどの家でした。

階級差がフランス革命後にも明確に残っていました。

1882年、42歳、ル・ゴーロワ新聞社で個展。

木炭画と版画による個展になりました。

1886年、46歳、長男ジャンの誕生。

ジャンは生後半年で亡くなってしまいました。

1889年、49歳、次男アリ誕生。

ルドン、最愛の息子の誕生です。

1890年、50歳、ルドンの作品に色彩が現れる。

それまで、色彩よりもはるかに黒の方がはるかに優れた精神の代理者と考えていたルドンでしたが、1890年あたりから色彩が現れ始めました。

彼の心境の変化には、

  • 恩人であるクラヴォーの首吊り自殺
  • 幼少期を過ごした伯父の邸宅の売却
  • 次男アリの誕生

が深く関わっていると考えています。

1913年、73歳、アメリカのアーモリー・ショーの一室で展示。

アーモリー・ショーは、ヨーロッパ現代美術紹介の展覧会です。

マルセル・デュシャンも出品していました。

1916年、76歳、死去。

出兵した次男アリを前線に探し歩き、風邪をひき、肺炎になり亡くなりました。

オディロン・ルドンが影響を受けた画家

ボルドーの美術館で、

  • ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796ー1875)
  • ウジェーヌ・ドラクロワ(1798ー1863)
  • ジャン=フランソワ・ミレー(1814ー1875)
  • ギュスターヴ・モロー(1826ー1898)

などに感銘を受けました。

[aside type=”normal”]各々の画家の代表的な作品を一点ずつ、ご紹介します。[/aside]

コロー「モルトフォンテーヌの思い出」1864年

ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」1830年

 

ミレー「落穂拾い」1857年

モロー「オルフェウスの首を抱くトロキアの娘」1865年

画家オディロン・ルドンの絵画、158の作品

1866年「崖に囲まれている女」イアン・ウッドーナー・ファミリー・コレクション

1877年「殉教者の首」クレラー=ミュラー美術館

1878年「眼=気球」ニューヨーク近代美術館

1878年「水の守霊」シカゴ美術館

1879年「夢の中で」6点


1880年「森の精神」

1880年「不思議な花」シカゴ美術研究所

1880年「自画像」オルセー美術館

1881年「サボテン男」

1881年「泣く蜘蛛」

1881年「笑う蜘蛛」オルセー美術館

1882年「幻視」岐阜県美術館

1882年「エドガー・ポーに」6点

1883年「オリジン」6点

1883年「アラブの楽人」プティ・パレ美術館

1885年「ゴヤ賛」6点

 

1886年「夜」6点

1887年「蜘蛛」岐阜県美術館

1887年「陪審員」6点

1888年「聖アントニウスの誘惑Ⅰ」6点

1889年「聖アントニウスの誘惑Ⅱ」6点

1890年「悪の華」6点

1890年「閉じた眼」オルセー美術館

1890ー1895年「花と女性」

1892年「セイント・ジョン」

1892年「The Golden Cell」イギリス美術館

1893年「シタ」シカゴ美術館

1895年「ベアトリーチェ」

1895年「イエスの御心」オルセー美術館

1895ー1903年「聖母の窓(ステンドグラス)」オルセー美術館

1896年「アリ・ルドンの肖像」シカゴ美術研究所

1896年「お化け屋敷」6点

1898年「後光を帯びた聖母マリア」ゴッホ美術館

1898年「聖アントニウスの誘惑Ⅲ」6点

1898ー1900年「キュクロプス」クレラー・ミュラー美術館

1899年「ヨハネ黙示録」6点

1900年「丸い光の中の子供」新潟市美術館

1901年「レモンとピーマンのある静物」個人所蔵

1901ー1902年「オフィーリア」岐阜県美術館

1902年「黄色いスカーフをまとったルドン夫人の肖像」クレラー=ミュラー美術館

1903年「花雲」

1903ー1906年「ポール・ゴーギャンの肖像」オルセー美術館

1904年「エヴァ(イヴ)」オルセー美術館

1904年「仏陀」オルセー美術館

1905ー1908年「花の中のオフィーリア」ロンドン・ナショナル・ギャラリー

1905年「花に囲まれた二人の少女」

1905ー1910年「オルフェウスの死」岐阜県美術館

1906年「赤い船と青い帆」個人蔵

1907ー1910年「ペガサスに乗るミューズ」群馬県立近代美術館

1908年「ケンタウロスと竜」クレラー=ミュラー美術館

1908年「アポロンの馬車」ボルドー美術館

1909ー1910年「アポロンの二輪馬車(アポロンの馬車と竜)」オルセー美術館

1910年「ルッジェーロとアンジェリカ」ニューヨーク近代美術館

1910年「出現」プリンストン大学美術館

1910年「キリストの磔刑」オルセー美術館

1910年「オアンネス」クレラー=ミュラー美術館

1910ー1914年「蝶と花」プティ・パレ美術館

1910ー1912年「聖セバスチャン」

1911年「トルコ石色の花瓶の花」個人蔵

1912年「青い花瓶のアネモネとリラ」プティ・パレ美術館

1912年「アンドロメダ」

1912年「Parsifal」オルセー美術館

1912年「ヴィーナスの誕生」プティ・パレ美術館

1912年「コキール」

1912年「赤いスフィンクス」

1913年「蝶々」

1914年「読書する修道士」ヴィンタートゥール美術館

1914年「パンドラ」メトロポリタン美術館

1916年「日本製の花瓶に入った大きな花束」ニューヨーク近代美術館

不明「エジプトへの逃避」オルセー美術館

不明「黄色いマント」個人所蔵

不明「ミステリー」ワシントン・フィリップス・コレクション

不明「成分:花」

不明「喚起」

日本の美術館にあるオディロン・ルドンの絵画作品

岐阜美術館には253点ものルドンの作品が所蔵されています。

蜘蛛 1887年 岐阜県美術館

丸い光の中の子供 1900年 新潟市美術館

オフィーリア 1901ー1902年 岐阜県美術館

オルフェウスの死 1905ー1910年 岐阜県美術館

ペガサスに乗るミューズ 1907ー1910年 岐阜県美術館

まとめ

オディロン・ルドンってどんな人?どんな画家?

  1. 内面的な世界、幻想的な世界を追求した画家
  2. ナビの画家に大きな影響を与えた人
  3. 絵画史における「印象派」「象徴主義・綜合主義」の時代を生きた人

オディロン・ルドンは「象徴主義」か?「孤高の画家」か?

オディロン・ルドンは、象徴主義・綜合主義、印象派にも属さない、「孤高の画家」だという観点を述べさせていただきました。

理由は3点です。

  1. オディロン・ルドンの作品は、象徴主義の作品の特徴とはすこし異なっている
  2. 作品に現れるルドンの色彩感覚は、同じ時代のどの画家とも異なっている
  3. ルドンは、50歳まで、モノクロの絵(木炭デッサン)などを描いた

オディロン・ルドンの影響を受けた画家は、

  • コロー
  • ドラクロワ
  • ミレー
  • モロー

といった画家に影響を受けました。

恩師は、植物学者のアルマン・クラヴォーです。

その他、

  • ルドンの生涯
  • 138点の作品
  • ルドンの作品を所有している日本の美術館の紹介

でした。

すこしでもルドンに興味が生まれましたら嬉しいです^^