徳島の戦国武将ってどんな人?有名?7つの特徴

こんにちは、自宅で痩せるダイエットヨガの藤田です。

ぼくは歴史を感じさせるものが全般的に好きです。オタク体質なのかハマりやすいです。

  • 宗教学の研究
  • 音楽の歴史
  • 絵画の歴史
  • 戦国武将
  • 三国志(からの中国史)

など、これらすべてが数百から数千年の歴史があります。そう考えるだけでも興奮して、鼻息が荒くなってしまうところがあります。

2019年4月から徳島に移住することが決まったのですが、移住を検討している際から戦国時代に徳島を統治していた戦国武将について調べていました。

「徳島に移住します!徳島ってどんなところ?12の特徴」という記事内では、余談になり、余談の量も多くなってしまいそうだったので、今回の記事に新しく書きました。

徳島県へ移住します!徳島ってどんなところ?12の特徴

今回の記事では、戦国時代に「徳島県」と「淡路島」(2つ合わせて阿波国)を統治していた蜂須賀家政について、まとめていきます^^。

用語一覧

以下「阿波国」は、現在の「徳島県」と「淡路島」を指します。

徳島の戦国武将!阿波国を統治した蜂須賀家政ってどんな人?

蜂須賀家政

阿波国は、長曾我部元親に侵攻されて一度長曾我部の支配下になりました。

その後、豊臣秀吉が攻めてきて豊臣秀吉が治めるようになってからは、蜂須賀正勝の息子「蜂須賀家政(はちすが いえまさ)」という武将が治めるようになりました。

蜂須賀家政を簡単にどんな人かを説明すると、

  1. あまり有名じゃない
  2. お父さんが豊臣秀吉に仕えたいから統治を一任された
  3. 阿波踊りを作った人(一説によると)
  4. 石田三成を好きじゃなかった可能性大
  5. 伊達政宗からは「阿波の古狸」と呼ばれていた経緯から、戦略家・策略家と思われていた可能性大
  6. キリシタン大名、後に仏教徒に
  7. 生き延びるためにあんまり目立たないようにしていた可能性大

ということが挙げられます。

1558年に生まれ、1639年、81歳で亡くなりました。徳川家康と並んで、戦国の世にしては長生きですね。

徳島の戦国武将は、あまり有名じゃない

まず、あなたは「徳島の戦国武将」と聞いて、パッと思い浮かびましたか?

ぼくはまったく思い浮かびませんでした。

そこで検索で調べても、検索結果もなんとなくパッとしません。

なんとか蜂須賀家政にたどり着いた後、単独で本って出てるのかな?とアマゾンで調べてみたところ、徳島の戦国武将「蜂須賀家政」だけを書いた本は一冊も出ていません。

お父さんの「蜂須賀正勝」の方が有名かもしれません。

他にもあまり有名じゃない、なんとなくパッとしないのは、「蜂須賀家政は徳川家康派で、石田三成の暗殺に加担した」と言われているのですが、石田三成暗殺に加担したのは豊臣秀吉の「七将」の方が有名です。

蜂須賀家政も七将に入っていたと言われているのですが、「資料によってはその中に入る」くらいの扱いで、常に七将に入っているわけではありません。

七将

豊臣秀吉に使えた猛将。関ヶ原の戦いでは徳川家康(東軍)につきました。

  1. 福島正則
  2. 加藤清正
  3. 池田輝政
  4. 細川忠興
  5. 浅野幸長
  6. 加藤嘉明
  7. 黒田長政(お父さんは黒田官兵衛)

徳島の戦国武将は、お父さんが豊臣秀吉に仕えたいと言いだしたもんだから、阿波国の統治を一任された

阿波国を統治するのは本当はお父さんの蜂須賀正勝が治める予定でした。

でも、豊臣秀吉が忠誠を誓っていたお父さんが「秀吉様に仕えたい!」と言いだしたため、阿波国は息子の蜂須賀家政が治めるようになりました。

蜂須賀家政は、1558年生まれ。任されたのは、1586年。28歳の時です。

18万石の大名になりました。

「石」について

「石」という表現は、「お米の量」を示しています。

1石で「成人男性が1人、1年間」食べていける量です。

1石で、米俵2.5俵分。

1俵は約60kg。

2.5俵は約150kgです。

「1石」=「約150kgのお米」=「成人男性が1年間で食べるお米の量」

上記の「石」の計算で行くと、180万石というのは、2700万キログラムのお米がある国だった、というわけです。(よくわからんな)

仮に平成30年産のコシヒカリ換算で、どれくらいの財力だったのかを計算してみます。

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こちら、徳島県産の新米、5kgで2580円。1kgでは、516円です。

徳島産の新米で、2700万kgのお米を現在のお金の価値に考え直すと、139億3200万円なり。

でも、その頃は農薬とかも開発されていなく、無農薬米だったかもしれません。そうなると、現在価値にするともっと高くなります。

徳島産が見つからなかったため、こちら、お隣、高知県産の無農薬米、1kgあたり796円なり。

2700万kgのお米を、現在のお金の価値に直すと、214億9200万円なり。

蜂須賀家政は、28歳で、約139億から約215億の価値を手にしたお殿様です。

28歳でそんな価値あるものを管理しなくてはならないとは、なかなか重大なものを任されたんですね。。。

でも、お金だったら、よっしゃ!使ってしまおうかな?なんてことも思ってしまいそうですが、お米だとそんなに食べれないですしね^^;

徳島の戦国武将が、阿波踊りをつくった

一説によると、阿波踊りは、蜂須賀家政がきっかけをつくったと言われています。

徳島城が完成した際に、「好きに踊れ」と言ってから始まったとされています。

徳島の戦国武将は、石田三成を好きじゃなかった可能性大

石田三成

蜂須賀家政は、秀吉が亡くなって起きた徳川家康vs石田三成の関ヶ原の戦いでは、息子を徳川家康側(東軍)、家臣を石田三成側(西軍)につかせて、どちらが勝っても家を存続できるようにしました。

ただ、石田三成暗殺に加わった七将に数えられたり数えられなかったりすることもあるように、気持ちは徳川家康寄りでした。

西軍総大将となった毛利輝元とは以前から繋がりがあり、総大将に担がれた毛利輝元に「なんで西軍の総大将になっちゃったの?!」的な諫める手紙も送っています。

徳島の戦国武将が石田三成を嫌いだった理由

それは、秀吉が朝鮮へ出兵した「慶長の役」の時のことです。

蜂須賀家政は、味方の大名を助けるために活躍したのですが、それに文句を言ったのが石田三成でした。「そんなことしなくてもよかったじゃん」的なことを言ったと言われています。

しかも、秀吉から預かっていた領地まで没収されました。石田三成も口下手な印象が強いので、適切な説明をしなかったであろうことが想像できます。そんなこんなで、完全に石田三成嫌いに。

もともと、このあたりの時代背景では、秀吉の下で、武断派と文治派が仲が悪かったこともあります。力があったのは文治派だったと言われていて、武断派の不満は溜まる一方。

武断派と文治派

武断派は、軍務を担った武将。(七将、蜂須賀家政など)

文治派は、政務を担った武将。(石田三成など西軍側)

武断派の不満は主に、文治派が政務や指示はするけれども、戦争の前線には出てこなかったことが挙げられます。

というわけで、どっちかにつくのであれば、蜂須賀家政は家康派になりました。

その後、石田三成は、その時のことを謝ろうと思って、誤解だと伝えようと思って蜂須賀家政を訪問しましたが、蜂須賀家政は取り合いませんでした。

まじ激おこ(死語感)だったのでしょう。

徳島の戦国武将は、伊達政宗から「阿波の古狸」と呼ばれていた。戦略家・策略家と思われていた可能性大

そんなこんなで、蜂須賀家政は、関ヶ原の戦いでは徳川家康(東軍)につきました。東軍には息子をつかせました。

しかし、徳川家康(東軍)だけについたわけではなく、石田三成(西軍)に家臣をつかせました。

西軍に家臣をつかせたのは、現在の高知県を統治していたのが長曾我部盛親の西軍に攻め込ませないため、という説が有力です。

地理的に、高知から徳島を攻めるのは簡単でしたが、徳島から高知を攻めるのは難しかったため、西軍の長曾我部に自国を狙わせないようにする意図がありました。

気持ちは東軍だったので、西軍につかせた家臣には、ものすごくゆっくり進行させました。やる気ありませんし、時間稼ぎです。

自分は、一応西軍に協力すると見せかけて領地を明け渡したために、頭を丸めて寺に入りました。

関ヶ原が終わった後は、西軍に参加して帰ってきた家臣をすぐに追放しました。

追放した理由は、徳川家康が勝った後に、間違いなく「お前の家臣は西軍に参加したじゃん?どうなってんの?」って言ってくることを見越してでした。前以て追放していけば、「家臣が勝手にしたことだから、怒って追放した」ということにできます。

案の定、関ヶ原の戦い後に徳川家康から「お前の家臣は西軍に参加したじゃないか」と言われたので、そのように対応してお咎めなしに。

線を引っ張ったところなのですが、これが調べていくうちに異なる可能性が高いことがわかってきました。2019年3月訂正。

家臣には「まずは西軍に加わる。その後は、いいか?わかったな?」と指示を出しました。どういう指示を出したのかというと、西軍側で出発した家臣を、東軍で活躍していた軍に、隙をみて、混乱に乗じて、合流させました!

それを見た家康は苦笑。「阿波の古狸め」と家康に言わしめたそうです。蜂須賀家政はもともと、家康に手紙を送っていました。「私は家康側の人間です!」という手紙ですね。それを知って、家康は、家政がどうするのか、動向をみていたのでしょう。

お咎めがなかった理由は、息子が東軍で活躍したから、という理由もあるそうです。

これが本当なら、蜂須賀家政は政治家として怖い一面もあります。ここまで計算に入れていました。

そんなやりとりがあったため、改易(領地を減らされたり没収されたりすること)は免れて、徳川天下の江戸時代になっても、蜂須賀家が阿波国を治めていました。

こういう策略家なのを知ってか、伊達政宗からは、「阿波の古狸」と呼ばれていました。

伊達政宗には悪口を言われたくない!?

伊達政宗の周囲の評判といえば、「誰にでも味方する信用ならないやつ」と思われていた様子。そんな伊達政宗からは言われたくないわ!って家政は思ったかも?

2019年3月訂正。この「阿波の古狸」という言葉は、伊達政宗が発した言葉ではなく、家康が言った可能性が高いことがわかってきました。

徳島の戦国武将は、キリシタン大名。後に仏教徒に

蜂須賀家政が信仰していた宗教は、一度、キリスト教の洗礼を受けていますが、のちに仏教の日蓮宗(要法寺)に改宗(?)しています。

2019年3月訂正。日蓮宗(要法寺)ではなく、高野山真言宗のようですね。訂正いたします。

改宗した理由には3つの可能性があって、

  1. 徳川の時代を生き残る為の「表向き」である可能性
  2. 時代背景的にキリシタンから仏教徒になるのは珍しくなかった
  3. もともとそこまでキリスト教に信心深くなかった可能性

この3つの可能性が考えられます。

1、徳島の戦国武将の改宗は、徳川の時代を生き残る為の「表向き」である可能性

1つ目の根拠は、元和5年(1619年)にペトロ岐部と187殉教者(都の大殉教)というものが起こっています。この年の同じ1619年に改宗してます。

豊臣秀吉は晩年、キリスト教を弾圧しました。徳川の江戸時代ではキリスト教は禁制です。変に目立って、徳川の機嫌を損ねたら、領地没収されたり、殺されますしね。

キリスト教が禁制、弾圧にあった理由

禁制や弾圧にあった理由は、キリスト教宣教師が武器を輸出入したり、人身売買を行なっていたから、と言われています。

(静かに信仰している人もいるのに、こういうことをする輩がいると全部が悪く思われるのが最悪ですよね)

2、時代背景的にキリシタンから仏教徒になるのは珍しくなかった

1とも関係していますが、黒田官兵衛も、黒田長政も、他のキリシタン大名も、多くの大名が仏教に改宗しました。秀吉と徳川天下では、キリスト教が禁止&弾圧されたためです。

なるべく波を立たせずに生き延びたければ、信仰を捨てて仏教徒になるのが一般的でした。お上に逆らえば殺される社会ですので。

3、徳島の武将の改宗は、もともとそこまでキリスト教に信仰心がなかった

阿波国の近辺で誕生したディオゴ結城に説かれて、蜂須賀家政がキリスト教を信仰したのが1607年頃。日蓮宗に改宗しているのが1619年頃。

キリスト教の信仰は12年くらいなので、もともと信心深くなかった可能性もあります。

当時の流行などで、利があればキリスト教に、利がなければ改宗といった軽いものだった可能性もあります。

徳島の戦国武将は、時代を生き延びるためにあまり目立たないようにしていた可能性大

ここまで調べてみて思ったのは、

一歩下がって、他の大名をみて、時代に応じた良策を実行し、愚策をなるべくやらないようにして、したたかに生きてきた人物だったんじゃないかなあ、というところです。「あんまり有名にならない」っていうのも一つの手なのかと。

どうしても目立って、かっこいい武将に目はいきがちですけど、できるだけ目立たず、波風立たさずに国を治めるっていうのもすごい実力なのではないかと。

秀吉の時代から2019年現在も、蜂須賀家は生き残っていますし。いろいろとはあったみたいですが。

家を存続させるってことを成功させたので、すごいことです。

まとめ

徳島の戦国武将、蜂須賀家政の7つの特徴をまとめてみました。

  1. あまり有名じゃない
  2. お父さんが豊臣秀吉に仕えたいから統治を一任された
  3. 阿波踊りを作った人(一説によると)
  4. 石田三成を好きじゃなかった可能性大
  5. 伊達政宗からは「阿波の古狸」と呼ばれていた経緯から、戦略家・策略家と思われていた可能性大
  6. キリシタン大名、後に仏教徒に
  7. 生き延びるためにあんまり目立たないようにしていた可能性大

の7つでした。

なんというか、目立っていないけれども、着実に堅実に実績を残すっていう印象であれば好印象だなあと。

それと、徳島を含めて四国は高野山真言宗(空海)が有名で、現在ではお遍路さんが観光にもなっているのに、徳島を代表する戦国武将の蜂須賀家政は日蓮宗なんかい!!ってところが面白かったです。

でもまあ、当時、日蓮宗は「男も女も誰もが悟れる、救われる」という認識の基盤を築いて人気だったみたいですね。このあたりも流行でしょう。

2019年3月訂正。よくよく調べていくと、高野山真言宗だった可能性が高いです。訂正致します。

今後も調べて、どんどん追記していきます。

今回はここまで。またねー!