坐禅を教えることを迷っている2つの理由

こんにちは、藤田です^^。

ビジネスとして行うダイエットヨガについては違うブログに分割しましたので、改めて、このブログでは気軽に書きたいことを書いていこうと思います。

ニーズに対して書くことも大事ですけれど、表現したいことを厳格に妥協なく表現していく場も必要だなって思って、このブログは雑記ブログにシフトしました。

厳格に妥協なく表現するためにも、ほとんどの装飾を省いて文字だけとしてブログを書いています。読みにくいとは思いますが、それでも読みたいと思っていただけた方だけに読んでもらえたらと思います。

ぼくはここ数年、坐禅を教えようか迷っています。というのも、本当に教えたいことは坐禅なんですよね。ヨガもセットなんですけど。

でも、坐禅については思うことがあって、なかなか教える、というところまで行っていません。

坐禅を教えることを迷っている2つの理由

坐禅を教えることを迷っている2つの理由は、

  1. お金をもらって教えるとなると、そこに「価値」が発生するけれども、坐ることなんて「私」と「あなた」にとって、なんの役にも立たないし、ためになることではないから
  2. 坐ろうとして坐ったら、ぼくが教えたい「坐」ではないから

この2つの理由になります。

1つ目の理由:お金をもらって教えるとなると、そこに「価値」が発生するけれども、坐ることなんて「私」と「あなた」にとって、なんの役にも立たないし、ためになることではないから

一つ目の理由から、書いてみますね。

藤田にとって坐禅とは

いろんな坐禅があって良いとは思います。まず、これが大前提。

ぼくにとっての坐禅は、「私」が楽になるために行うことではなく、「私」から楽になるために行うことなんですね。

そして、もっと厳密にいうと、

  1. 「行うこと」でもありません。
  2. 「坐禅をしている」わけでもありません。
  3. 藤田が行なっていることは坐禅ではないのかもしれません。「坐禅に似てる」ってだけであって。藤田は無宗教者で、仏教徒でもありませんし。「坐ることが起こった」のであって、「坐ろうとし、坐る」のだと、一歩ズレてしまっているという認識

はあ?って思うかもしれないんですけど、このあたりを説明しようと思うと、文字数が多くなってくるんですよね。

説明するのも長くなって面倒臭いので、普段は「趣味とか、好きなことはなにしてるの?」って聞かれたら、「坐禅してます」って言うようにしています。笑

世の中にあるものを大きく分けると3つある

世の中にあるものを大きく分けると、3つに分けられると思っています。

  1. 「私」が楽になるために行うこと
  2. 「私」から楽になるために行うこと
  3. そもそも「私」なんて、これまでもこれからもいないから、楽なう(この視点はややこしいから今回は割愛)

この3つです。

そして、世の中を見渡せば、ほとんどのものが1に該当するのがわかると思います。

私が楽になる、私が成功する、私が目標を達成する、私が夢を実現する、私が自由になる、私がお金持ちになる、私が目立つ、私が有名になる、私が誰かを幸せにする、私が苦しまないように、私が誰かのためになることをする、私が悟る悟った、私が、私が、私が、、、というものですね。

1はお金になると思うんですよね。ニーズがそこにあって、誰かのためになるわけですから。そして、お金をとって良いことだと思うのです。

これはけして、1番を否定しているわけではありませんので。優劣で、「2番の方が優れているー」なんて話をしているわけでもありません。

ぼくが現時点では7〜8年ですけど、坐る人生になった理由は、そういった、幸せを求める「私」、成功を求める「私」、自由を求めている「私」、そういった「私」から自由になる瞬間がここにあるのかも?ってことなんですよね。

「私」から自由になるんです!みたいな確信めいた、まさにこれだ!ってことでもないんです。なるのかも?ってところがミソなんです。だからこそ、坐っているのです。

これがなかなかいうほど簡単ではなくて、戦ったり、逃げてばかりだなって思うこともあるんですけどね。笑

坐禅と瞑想の違い

そこで、坐禅と瞑想の違いなんですけど、「坐禅は瞑想ではない」ってぼくは思っています。

これは坐禅や瞑想に関わる人の定義によっても違うとは思うので、あくまでも藤田の定義になります。

瞑想は「私」のためにやるからです。「私」が楽になるために行なっています。

なので、瞑想なのであれば、お金とってもいいと思うのです。私が楽になるためにやっているのだから。「私」のために行うのであれば、そこにはニーズがあります。

坐禅は、「私」のためにはなりません。言ってしまえば、「私」のためにならないんだから、なんのためにもならないんです。

ビジネスのためにもならないし、生活のためにもならないのです。笑

有名な経営者が坐禅をしているって話になることもあるんですが、それが経営のためだったり、自分を整えたりするためにやっているのであれば、それは瞑想です。ぼくが定義している坐禅ではありません。

じゃあ、なんでなんのためにもならないそんなことをやってるのか?というところが大切なんです。なにかのためではないんですけど。。。

ここはぼくの人生が坐る人生になった理由を話さなくてはなりません。

これが2番目の理由になるんです。

2つ目の理由:坐ろうとして坐ったら、ぼくが教えたい「坐ること」ではないから

忘れもしない、24歳の時です。

「物理的な幸福と自由」にも、「精神的な幸福と自由」にも、違和感がありました。このズレをどうにかしたかったのです。

「これら二つが価値がないよ」って言いたいわけではありません。自分の生き方を否定されたように捉えないようにしてくださいね。あなたの生き方を否定するような、そのような意図はありませんから。

物理的な幸福と自由の側面から

17歳の時から仕事を頑張って、いろいろな活動をして、24歳の頃には決めていた目標の額のお金を、自分の好きなことで稼げるようになりました。

めちゃくちゃ稼いでいる人からすれば、そんなに多くない額だとは思うんですけどね。ぼくにとっては経済的な成功、物理的な幸福でした。自分のやりたいって思えることもやれていました。

「目標→達成」は、きっとこの延長だろうと思いました。目標と達成の大小はあったとしても。うーん、確かに達成感はあるし、満足しているけれども、本当にこれがやりたいんかなあとずっと思っていました。

なんだろう、この違和感は。しかし、この違和感を無視することはできませんでした。

物理的に、世界になにかを築き上げることへの違和感。もやもやもやもやとしていました。

おそらく、この頃のぼくを知っていると、「急に隠居しちゃったなあ」みたいに思われるかもしれません。実際に、友人から「隠居したの?」って言われましたし。笑

精神的幸福と自由の側面から

ぼくは物心ついた頃から「死にたい人」でした。

すみません、急に話が重くなってしまうんですけど。笑

人間関係とかも、人生のすべてが、ことごとくすべてがうまくいかなかったのです。

おそらく最初にハッキリと「死にたいな」って思ったのは、小学校5年生の時です。

「死にたい」ということがなんなのかわからず、言葉にもできないけれども、その前兆は幼稚園の年長からです。

その頃から生きることに希望なんて持っていなかったのです。「死」にはずっと向き合ってきました。死がずっと傍にあったのです。

でも、生きなきゃいけないから必死になにか生きるための理由みたいなのを探していました。

例え話をすると、ぼくは馬で、目の前にぶら下がる人参を求めていました。それを追いかけていれば生きていけると思っていました。

すべてについて語ると長くなるので、概要だけ簡単に並べると、

  • 親は宗教をやっていたので、二世信者としての苦悩
  • 親の教育の厳しさとしんどさ
  • 学生時代のいじめ、学生時代の13年中、9年間くらいイジメられていました
  • うつ病、PTSD、パニック障害、対人恐怖、トラウマなど
  • 社会に出てからもめっちゃ人こえええ!(克服するために荒療治で営業職)

そういったものを抱えていました。

家を出て、初めての暮らしがその当時の彼女と同棲だったんですけど、その時までどこにも自分が安心して落ち着ける居場所を感じたことがありませんでした。(実際は彼女と同棲しても落ち着けない感じがずっと続いたんですけどね)

そういったものをすべて自分の中で解消すれば、うまくいくんだと思いました。楽に生きられるようになるぞ!と。

で、実際に、心理学やカウンセリング、メソッド、身体のことなど、様々なことを勉強して、すべて克服しました。めちゃめちゃ幸せになりました。開放感ですし。

何度も殺そうと思った親も許せましたし。

本気で殺そうと思って、包丁を手に持って、親の前に立つところまで行きました。「殺すぞ、おらああ!」「殺してみろ!!こいよ!!」と父親と叫びあったのは、今では良い思い出です。笑

こういうことの全てを克服して、精神的にもとても満足できるようになりました。不安も心配も完璧に近い形で扱えるようになって、あまり悩まなくなりましたしね。消そうと思えばすぐに消せるわけです。

これが「精神的な幸福と自由」についてです。

こう考えると、ぼくは物理的にも精神的にも非常に恵まれてきたのだと思います。たくさんのサポートを受けることができて、素晴らしい出会いやツールに恵まれました。

それはよかったんです。それはよかったんですけど。

すべてを克服した24歳の時。これもまた24歳の時にぶつかっています。

なんか、違和感が^^; 違和感が止まらない。。。ロマンティックだったらよかったのに。。。

ロマンティックではなかったんですよね。違和感が。。。

坐る人生の始まり

そうして、「なにかすること」の一切に疲れて、「ただ坐った」のです。「坐ることが起きた」のです。

ひょんと、坐りました。坐ろうと思って坐ったわけではありません。

んんんんん?あれ?ああああ、もしかして、もしかするかも、、、

その瞬間は、すべてがなくなってしまったのです。もちろん、違和感も。すべてがあって、すべてがない。消えた。「ぼく」なんて初めからなかったんだ、、、???ってなに???え???

起きてくる認識に対して、考えようとすると理解が追いつきませんでした。

違和感がなくなり、すべてを理解して腑に落ちた感覚と、考えようとすると理解の範疇を超えて何も説明できない感覚の両方が同時にありました。

それまでも特異な体験はたくさんあったんですけどね。これについては、いずれ話します。

大海は、コップではすくうことはできません。コップ(言葉)ですくえるのは、いつもごくごく限られた一部分です。

大海を、大海として感じ続けるためにも、、、

ここから坐る人生が始まります。

藤田が教えたい坐禅とは、つまり、こういうことで、一生懸命坐禅しようとして坐ったり、「坐ろうとして、坐った」ら、ぼくが教えたいことではないんです。

冒頭で、

  1. 「行うこと」ではない
  2. 「坐禅をしている」わけでもない

と書かせていただきましたが、「なにもしていない」から「坐った」のです。

似ているようで、全く違うものになってしまいます。

でも、難しくないですか?意味わからなくないですか?坐ろうとして坐らない、なんて。

ちなみに、ヨガを始めた理由を、坐ることを含めて話すと、身体的(物理的)満足を得て、精神的満足を得て、疲れることができるから始めました。

つまり、「坐る」前までに歩んできたプロセスが、ヨガにはすべて詰まっているのです。

ヨガはお金にすることができますから。そこに満足がありますし、「私」のためにやるので。

ヨガは、動的瞑想という定義です。ヨガは為になります。

まとめ

なんか、長々と書いてしまいましたが。

  1. 坐禅やってみたい!坐ってみたい!それが価値あるものだからお金を払います!
  2. 坐ろう!坐ってみた!

っていうところからだと、ぼくが教えたい坐禅じゃないんです^^;

だから、教えることを迷っている、という話でした。笑

今回はこのへんで。またねー!